top of page

蓋。


息子が4月から働き始める。


それを想像すると、ふと手が止まった。

——

なんでもない、普通の朝のことだった。


あの、小さかった手。

泥だらけになった手、うまくいかないとすぐに泣いていた。

「葉はなんで落ちるの?なんで色が変わるの?」そんな問いを次々と投げてきた、あの目。


それが今、スーツを着て社会へ出ていく。


あっという間だった。

そしてその「あっという間」の分だけ、私も歳をとったということだ。


子どもの成長は、自分の時間が流れた証拠でもある。嬉しさと、どこか寂しさが、同時に胸に来る。親ってそういうものなのかもしれない。


息子が「社会人」になる。その言葉を噛みしめながら、ひとつの問いが浮かんできた。


大人って、なんだろう。


大人だから偉い——そんなことはない。

大人だからしっかりしなければならない——それも、本当にそうか?

大人だから、我慢する。大人だから、常識に従う。大人だから、夢よりも現実を選ぶ。


気づけばいつの間にか「大人」という言葉が、一種の鎧になっていないか。

それを着込むことで、何かを守っているつもりで、実は——


人生に蓋をしているだけじゃないか。


子どもの頃は、知らなかった。世界はこんなにも広くて、面白くて、不思議なものだらけだと感じていた。なぜ?と問い続けていた。


いつから人は「大人になった」と思った瞬間に、その問いをやめてしまうのだろう。


里山で暮らしていると、季節のたびに気づかされる。


春の芽吹き、夏の蝉の声、秋の柿の色付き、輝く星の数。何度経験しても、毎年新鮮に「すごい」と思う。見飽きることがない。


それは、自然が毎回違うからでもあるけれど——私自身が、まだ蓋をしていないからだとも思っている。


「また春か」ではなく、「また春だ!」と感じられる限り、私はまだ生きている。


子どもの純粋さって、無知じゃない。世界をまっすぐ受け取る力のことだと思う。先入観の濾過装置を通さず、今この瞬間に驚き、喜び、疑問を持つこと。


大人になることは、その力を手放すことじゃない。

知識も経験も積みながら、それでもまだ「なんで?」と問い続けること。それが、本当の意味で成熟した人間じゃないかと思う。


そんなことを考えながら、改めて思う。


里山暮らしは、そういう「問い」に答えてくれる楽しみが詰まっている。


なぜ竹はこんなに早く伸びるのか。蜂はどうやって巣を作るのか。柿が甘くなる瞬間はいつなのか。しめ縄を編みながら、何を祈っていたのか。土の中で何が起きているのか。鶏の序列はどうやって決まるのか——。


正解なんてなくていい。ただ、問い続けることができる。それだけで、毎日が発見になる。


子どもたちには、そんな暮らし方を伝えられたらと思っている。「こうしなきゃいけない」ではなく、その時代に沿った暮らし方を、自分なりに楽しんでほしい。型を押しつけるんじゃなく、問いを持って生きることの面白さを、一緒に味わいたい。


息子に伝えたいことがあるとしたら、一つだけ。


「大人になったからって、蓋をするなよ。」


社会に出れば、理不尽もある。思い通りにいかないことも、たくさんある。それでも——世界を面白いと思う目だけは、持ち続けてほしい。


私自身もそうありたい。


人生は一度きりだ


輪廻転生があったとしても、きっと記憶はない。だとすれば、今の「自分」では一度きり。この身体で、この意識で、この時代を生きるのは、今だけ。


それを思うと、「大人らしく」している時間がもったいなくなる。


皺が増えても、膝が痛くなっても。

最後の最後まで、「なんで?」と問い続けて、四季に感動して、土を触って、空を見上げて。


純粋無垢のまま、墓場へ行きたい。


それが今の私の、一番正直な想いです。


*ひよ里(自然農園ひよ里・茨城県常陸太田市)*

*半農半X+α 里山暮らし実践中*

 
 
 

コメント


bottom of page